こんにちは、Joy Living Lab.石井です。
どうしても気になって気になって、、参加してきましたの記録です。
三連休の真ん中に開催された、「オープンダイアローグと中動態の世界」。主催はオープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(OPDNJ)です。私なにげなくここの賛助会員だったりして。
栃木県に移り住んで2年半となり、都内のこういった会に参加するのもめっきり腰が重くなってたこの頃。でもこれは!と悩んでいて、そしたらぜひ会ってこの件について語りたい!とおもう方とご一緒できることになり、はりきって出かけました。
この会の前提として、斉藤環著『オープンダイアローグとは何か』(医学書院)、國分功一郎著『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院 シリーズケアをひらく)の二冊の本があります。
(いちお会場にもっていったけどほとんど開かなかったね)
中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
- 作者: 國分功一郎
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2017/03/27
- メディア: 単行本
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中動態の本は、興味惹かれながらも読んでいる途中でどうしても寝落ちしてしまってほとんど読めてなかったのだけど(白状)、著者の國分さんが初心者にも大変わかりやすく解説してくださってよく理解でき(たような気分になり)ました。また読んでみよっと。
(東大駒場キャンパスの450人収容のホールが満席!時代のニーズでしょうか。)
以下、ちょうざっくりのふりかえりと感想です。(不正確な点もあるかと)
いわく、中動態は、能動態と受動態という現代使われている「態」とは異なる文法上の「態」で、古代ギリシャには存在してたらしい。
たとえば「感動する」とか「好きになる」みたいに、それって本当に自分が行為したこと?というような事象を表す際のもので。日本語で「感動する」、と「感動させられる」、は同じ意味だよね、とか。
で、むかーし「能動態」と「中動態」が対立項だった時代から、革命がおきて現代の「能動態」と「受動態」の世界になるにあたって、組み入れられたのが「意志」の概念なのではないか、と。
あなたが、したんだよね。あなたの意志で。となる。だからそれはあなたの責任だよね、て話にもなる。
「意志」によって行為の主体を限定できるってことが近代化には便利だったんだろう、と。(ざっくり)
それとともに、「行為する側」「行為される側」といった関係性がうまれて、それが権力関係になる。
(國分功一郎さんによるレクチャー)
でも、そういう縦方向の、上下の関係性に私たちはたぶんもう疲れてて、いろんなところに副作用やひずみがでてきてる。
そういうひずみの1つが、精神障害なのかもしれない。他にも、まあいろいろあるんだろう。
そういう、能動と受動をパッキリわけるようなやり方をやめて、起こっている出来事と本人をきりはなし、本人と周囲がフラットに関わり合えるような取り組みによって、精神病が治りまくっている、という手法(思想)があって。それがフィンランド発祥の「オープンダイアローグ」なのでした。
(斎藤環さんによるレクチャー)
私が学生時代に研究の名目で長期滞在させてもらっていた北海道の「べてるの家」がやっている、「当事者研究」のやり方だったり、そこで医師やソーシャルワーカーといった「専門家」が権威を手放して当事者中心のケアを行なっているシステムにも通じるところが多い。
(べてるのスタッフの方もいらしてました!)
ちょうどこの夏にべてるの家を再訪したところだったから、また近しい世界観に触れられて嬉しい。
(「元祖べてるの家」の旧浦河協会。夏に再訪した際の写真)
いまの私にできることといったら、自分の身の回りに、フラットで、中動態的なノリでいられる関係性やコミュニティを着々と作っていくこと、そうして身の回りの世界を変えていくこと、かな。引き続き。
まだまだ書きたいことあるんだけども、、今日のところは「哲学概念を理解するってのは、感動する=自分が変化する、てことだ!」という國分さんの(ハイデガー引用からの)言葉を紹介して、締めます。
いやー國分さんはじめ、ひきこもり問題第一人者の斎藤環さんや、大好きな心理士のあの方のお話も伺えて、ホクホクでしたー!
そんなかんじです。
Joy Living Lab. 石井